大塚淳『統計学を哲学する』について

 この記事は、大塚淳統計学を哲学する』(2020年、名古屋大学出版会)についての記事である。特に、哲学の観点から、本書における認識論への言及について論じる。

 先に自己紹介をしておこう。私は数年前に大学院の修士課程を修了し、それ以降は特に哲学とは関係のない仕事をしている。大学では、学部・院を通して分析的認識論を勉強・研究していた。伝統的・非形式的な認識論のほうが詳しいと思っているが、形式認識論(特に確率を用いるベイズ認識論)についても関心を持っていて、博士課程に進んでいたらベイズ認識論を中心にした研究を行おうとも思っていた。数年前の記事になるが、私がどのようなトピックを学んでいたかは、現代の分析的認識論を紹介したこのブログ記事を読むとより把握できると思う。
 踏まえて、以下の文章は主に哲学の視点からみたものになり、記述の大半は哲学的認識論に割かれている。帰納推論や因果推論などのトピックについてはあまり触れていないが、これは本書の内容によるものというよりも、単に私があまり詳しくないからという理由が大きい。

 

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1. 本書の紹介と本記事で論じたいこと

 『統計学を哲学する』は、統計学と哲学の境界という、今まで日本語文献では手を伸ばしにくかった分野に手を伸ばしている。本書の特徴は以下の3点に整理できる。第一に、帰納推論という伝統的な哲学的問題に対する回答として統計学がどのように位置づけられるかを描いている。これには、狭い意味での帰納推論だけではなく、哲学的因果論と統計的因果推論との結びつきも含められる。第二に、確率解釈と主要な統計推論との関係を描き出している。単に確率の主観解釈や頻度解釈について述べるだけではなく、本書は、主観解釈とベイズ統計の結びつき、頻度解釈と検定理論の結びつき、そのなかで尤度理論がどのように位置づけられるかについてまで記述を深めていく。第三に、主要な統計推論と、分析的認識論を結びつけて議論を進めていく。ベイズ統計の説明においては認識論的内在主義が、古典統計(検定理論)の説明においては認識論的外在主義が、モデル選択理論の説明においてはプラグマティズム認識論が、深層学習の説明においては徳認識論が取り上げられている。本書の言葉では、第一の点は統計学存在論、第二の点は統計学の意味論、第三の点は統計学の認識論として整理されている。
 本書で取り上げられている哲学の用語は上で触れたもの以外でも多岐にわたる。用語だけ並べれば、リアル・パターン、翻訳の不確定性、デュエム=クワインテーゼ、ウィトゲンシュタインの(足し算の)パラドックスなどが挙げられる。本書は、統計学については数学的な記述は抑えながらも適切に要点を伝えており、哲学については現代の分析哲学で論じられているさまざまなトピックを紹介している。統計学の基礎や、より近年の因果推論・深層学習などを解説していきながら、それと関連する様々な哲学的トピックを説明していくのは、統計学に馴染みのある読者に哲学に触れてもらうのに、あるいは哲学に馴染みのある読者に統計学に触れてもらうのにはとても適しているだろう。
 ただし、著者による統計学と哲学の紐付けのなかには、違和感を覚えるものがあるものも否定できない。私が特に違和感を覚えたのは、ベイズ統計は認識論的内在主義、古典統計(検定理論)は認識論的外在主義にそれぞれ親和的であるという、本書の主張である。以下では、この違和感について掘り下げていきたい。
 先に結論を述べておこう。私の考えでは、認識論的内在主義と外在主義との対立は、ベイズ統計と古典統計の違いによっては適切に捉えられていない。私の結論は、本書の整理が明らかに間違っているというものではない。ベイズ統計と内在主義、古典統計と外在主義との関連性は、本書が提示している点において類似していることは否定できない。ただし、それらのアナロジーがどれだけ統計学あるいは認識論の理解に資するものになっているのかは疑問が残る、ということだ。

2. ベイズ統計と検定理論を、認識論的内在主義と外在主義に結びつけることについて

 はじめに、古典統計(検定理論)と外在主義との結びつきについての著者の議論をみることで、私が外在主義の勘所がどこにあると考えているかについて確認したい。著者は、検定理論を外在主義的と特徴づけたあとに、信念形成プロセスが信頼できるということの保証を得ることの重要性について論じている。

検定理論の正当化において重要なのは、特定の結果ではなくそれを生み出すプロセスの信頼性である。この信頼性を支える条件の成否は、通常我々には隠されており、単純な指標によっては確認できるようなものではない。しかし外在主義的な正当化が真理促進的でありうるためには、この隠された外的条件に無責任になることなく、その成否を問い続けることが必要なのである。(p. 123)

しかし、このような保証を得ることは、外在主義者が知識や正当化に必須とするものではない。そもそも外在主義というのは「このような保証を(認識主体が)持つ必要はなく、信念形成プロセスが事実としてその世界において信頼性を有しているのであれば、その信念形成プロセスによって形成された信念は正当化される」という立場なのだ。もし、検定理論を用いる統計学者が、純粋に外在主義的なのだとすれば、「その検定理論に基づく信念形成プロセスが信頼できるという根拠はどこにあるのか、その根拠を示せなければ、その検定理論に基づいて得られた信念は正当化されていないのではないか」と問われたとしても、「いや、この信念形成プロセスによって形成された信念は、この信念形成プロセスが事実として信頼できる(この世界において信頼できる)限りにおいて正当化されており、そのことは、たとえこの信念形成プロセスが信頼できるということの根拠を私が提示することができなくても変わらないのだ」と答えるだろう。
 とはいえ、この検定理論を用いる統計学者は、確かに認識的に無責任であるようにみえるだろう。特にこの信念が科学的仮説に関するものであれば尚更だ。この無責任性は、認識論的内在主義者が外在主義者を批判するときにしばしば指摘してきたものである。上述のような内在主義的直観に基づく批判に対して、認識論的外在主義者は、その直観も自身の理論のなかにうまく組み入れようとすることによって回答しようとする。著者が4-2節および4-3節で紹介しているようなSosaの議論がまさにそれだ(pp. 172-3)。Sosaは、信頼性のあるかたちで形成されてはいるが、それが信頼性のあるかたちで形成されているということについての信念を適切には持っていないような信念のことを(それが知識として認められるとき)「動物的知識」とよび、他方で、信頼性のあるかたちで形成されていて、また信念形成が信頼できることについての適切な信念も持っているとき、その信念のことを(それが知識として認められるとき)「反省的知識」とよぶ。つまり、Sosaは、外在主義的知識がれっきとした知識であるということは主張しつつ、内在主義的な裏付け(いわば二階の知識)もある知識については、それよりもさらに「高等な」知識であると論じることによって、内在主義的直観を自身の立場に取り込もうとする。
 上述のような整理では、認識論的外在主義の核心は、自身の信念についての信頼性についての正当化が得られていなくとも、もとの信念に正当化されうるのだと論じることにある。そうであるならば、検定理論が外在主義的であるというためには、検定理論の根底にある考えが、「自身の信念についての信頼性についての正当化が得られていなくとも、もとの信念に正当化されるのだ」という考えを含んでいるものでなければならない。しかし、これは正しくないのではないだろうか。著者がまさに指摘しているように、科学的実践においては、自身の信念形成についての信頼性の根拠を提出することは絶えず求められる。頻度主義的な検定理論の伝統的な考えにおいても、信念形成についての信頼性を検証することの重要性は別に否定されないだろう。そうであるならば、検定理論が認識論的外在主義と親和的であるという考えは正しくないのではないだろうか。そもそも検定理論の論者は誰も外在主義者ではないのである。
 見通しをよくするために、前段落で述べたような議論を、「検定理論の伝統的・古典的論者が受け入れている認識論は外在主義的ではない」という結論を持つ論証として提示しよう。

■検定理論は外在主義的ではない

 (1) 検定理論の伝統的・古典的論者が受け入れている認識論が外在主義的であるならば、その論者たちは、「検定理論によって形成された信念は、その信念形成プロセスが事実として信頼できる限りで、信念形成プロセスが信頼できるということの根拠が示せなくとも、正当化されている」と論じる。
 (2) しかしながら、検定理論の伝統的・古典的論者たちは、「検定理論によって形成された信念が、信念形成プロセスが信頼できるということの根拠を示せなくとも正当化されている」とは論じない。
 (3) そのため、検定理論の伝統的・古典的論者が受け入れている認識論は、外在主義的ではない。

私は(概ね正しいだろうと考えてはいるものの、)この論証に対する正当化を十分に行なっていない。(1)(2)の根拠は十分に示されていない。検定理論の伝統的・古典的論者とは誰なのか、それが受け入れている認識論とはどのような命題群なのかも明らかではない。とはいえ、少なくとも本書で示されているような検定理論と認識論的外在主義との結びつきについて疑念を提起することはできているのではないか。
 外在主義の特徴づけを終えたところで、ベイズ統計と内在主義、検定理論と外在主義との並行関係の全体像に戻ろう。私の理解では、著者が外在主義と検定理論が親和的であるというのは以下のような類似性による。

■検定理論
(1) 検定理論は真理を追跡するように設計されているため、正しく使われていれば信頼できる。
(2) しかし、正しく使われているかどうかの確認がしばしばなおざりになる

■認識論的外在主義
(1) 真理を追跡する(track the truth)ように設計されているなどで、信頼できるプロセスによって形成された信念は、正当化されている。
(2) 外在主義はプロセスの信頼性についての根拠を持つことは正当化の必要条件ではないというが、それは反直観的だと批判される。

私は、検定理論が外在主義と親和的であるというためには、少なくとも検定理論の古典的論者が 「プロセスの信頼性についての根拠を持つことは正当化の必要条件ではない」と論じている必要があるのではないかと述べ、それは満たされていないだろうと述べた。
 他方で、ベイズ統計と認識論的内在主義についてはどうであろうか。私の理解では、著者がベイズ統計と内在主義が親和的であるというのは以下のような類似性による。

ベイズ統計
(1) ベイズ統計の推論それ自体は、事前確率と尤度という信念の度合いから、事後確率という信念の度合いを導き出すものである
(2) そのため、ベイズ統計の推論はそれだけでは信念と世界との繋がりが得られておらず、別のところでその繋がりを確保する必要がある。

■認識論的内在主義
(1) 認識論的内在主義では、正当化は何らかの意味で主体の内部にあるもの同士にしかは認められない。それは典型的には信念同士である。
(2)そのため、認識論的内在主義では信念と世界の繋がりを得るのが困難で、それをどう確保するかがしばしば問題になる。

そして、私が検定理論と外在主義について述べたような議論を、ベイズ統計と内在主義についても述べることができる。私の理解では、内在主義の核心は、「正当化は何らかの意味で主体の内部にあるもの同士にしかは認められない」ということにある。問題は、ベイズ統計の古典的な論者が、このような主張を受け入れているかどうかである。ここに着目して、次のような論証を組み立てることはできる。

ベイズ統計は内在主義的ではない

 (1) ベイズ統計の伝統的・古典的論者が受け入れている認識論が内在主義的であるならば、その論者たちは、「信念を正当化できるのは何らかの意味で主体の内部にあるものだけであり、典型的にはそれは信念だ」と論じる。
 (2) しかしながら、検定理論の伝統的・古典的論者たちは、「信念を正当化できるのは何らかの意味で主体の内部にあるものだけであり、典型的にはそれは信念だ」と論じていない。
 (3) そのため、ベイズ統計理論の伝統的・古典的論者が受け入れている認識論は、内在主義的ではない。

本書でも述べられているベイズ統計がしばしば訴える「洗い出し」「経験ベイズ」の考え方は、(2)の論拠として挙げられるかもしれない。他方で、無情報事前分布やその背景にある無差別の原理は、非経験的な議論であるため、(2)の論拠とは考えにくい。とはいえ、この論証は、検定理論は外在主義ではないという論証に比べると、あまり説得力がないかもしれない。ベイズ統計と認識論的内在主義の関係についてはまだ2点述べたいことはあるが、議論の流れから逸れることになるため、脚注に譲ろう。*1
 ベイズ統計は内在主義ではないという論証がもっともらしくないと私が思っているのは、単純に、ベイズ統計はおそらく内在主義的だろうと私も感じているからだ。とはいえ、「(検定理論はそうではないが)ベイズ統計は内在主義的と親和的だ」といわれると、私は引き続き違和感を覚える。というのも、科学的実践はすべて内在主義的なのではないかと思うからだ。科学的実践のような反省的な営みにおいては、科学的仮説についてのある信念の根拠として、絶えず別の信念を持ち出すことが求められる。古典統計であれベイズ統計であれ、仮説検定が正しく使われていることの根拠であったり、ベイズ統計の推論が客観世界に結びついていることの根拠であったりを、主体が提示できるかどうかが問われるのである。これは、外在主義的な認識論が、動物や精密な機械などに知識を帰属させることに適しているとしばしばいわれるのと対照的である。そうであるならば、古典統計であれベイズ統計であれ基本的には内在主義的なのであり、「ベイズ統計は内在主義と親和性が高い」ということは適切ではないのではないか。
 とはいえ、本書はベイズ統計と内在主義との関係性、検定理論と外在主義との関係性についてあまり強い主張をしているわけではない。そのため、私が述べてきたような論点が、著者のこれらの関係性についての主張を否定するものになっているかどうかは、判然としない。著者の記述を見てみよう。

ベイズ統計を信念間の整合を重視する内在主義的認識論、検定理論を信念形成プロセスの信頼性に関する外在主義的認識論として対比させた。これはもちろん、それらの統計学的/哲学的主張の間に完全な対応があるということを主張するものではない。実際の統計学、認識論の区分ははるかに複雑で込み入っており、このような単純な二分法で割り切れるものではない。全ての統計モデルが偽であるのと同様、こうしたメタ統計学的な分析もまた煎じ詰めれば誤りであろう。しかしながら、帰納推論という共通の問題に対する二つの異なるアプローチとして、このような単純で理想化されたモデルを立てることは、それぞれのアプローチの特徴と問題の所在をあぶり出すという点でも、「役に立つ」のではないかと思われる。  (p. 226)

確かに、本書が述べるように、ベイズ統計と内在主義との類似性、検定理論と外在主義との類似性を述べることは、ベイズ統計と検定理論のアプローチの特徴と問題の所在をあぶり出すのには役に立つのかもしれない*2。とはいえ、ここまで述べてきたように、私の考えでは、認識論的内在主義と外在主義の対立の核心は、ベイズ統計と検定理論の違いに対比されることによっては捉えられない。ベイズ統計と検定理論は、認識論的内在主義と外在主義がまさに争っている主張において相違があるとは考えにくい。ベイズ統計は内在主義に類似している部分があり、検定理論が外在主義に類似している部分があるとしても、外在主義を内在主義と対立する立場として際立たせる主張を検定理論は受け入れていてベイズ統計は否定しており、また内在主義を外在主義と対立する立場として際立たせる主張をベイズ統計は受け入れていて検定理論は否定しているとは考えられないのだ。本書の記述は、内在主義と外在主義の対立を理解するのにはあまり適切ではないのではないだろうか。著者は次のように述べている。

とりわけ、統計学と哲学的認識論の間に見られるパラレルな関係性を描き出すことに努めた。繰り替えしになるが、これはあくまで一つの見方ないしモデルにすぎない。このモデルがどの程度、実際の統計学および認識論の内実と実践に忠実であるかは、読者諸兄の判断と批判を待つほかない。(p. 228)

ここまで述べてきた私の考えでは以下のようになる。このモデルが役に立つ範囲はかなり限定的で、とりわけ、認識論において内在主義と外在主義が対立しているポイントを捉えるのには、あまり役に立たないだろう。*3

3. まとめ 

 本書は、統計学の解説とひもづけるかたちで、哲学の概念や議論が次々と紹介されていく。これらは、統計学に馴染みのある読者に哲学の紹介をする、あるいは哲学に馴染みのある読者に統計学の紹介をするのにはとても良いだろう。これは本書が掲げている目的の1つであり、それは大きく達成されていると思う。ただ、統計学やその背景をより深く理解するために、それと長い年月のあいだ没交渉にある哲学の議論を有効に持ち込むこと(あるいはその反対)は、とても難しいことだ。もしかしたら、統計学や哲学の歪んだ理解につながってしまうかもしれない中身のないアナロジーに転じてしまう危険性さえもある。本書がこのような危険に明確に陥っているとは思わない。しかし、本書で展開される統計学と哲学のアナロジーが、どれだけ統計学あるいは哲学の理解に資するものになっているのかは疑問が残る。
 本記事ではベイズ統計と内在主義、検定理論と外在主義との結びつきについて論じた。本書で展開されている他のアナロジーについて詳細に評価することは私の能力を超えてしまう。それでも私の印象を述べておこう。本書では統計学の意味論として整理されている、確率解釈と古典的な統計手法との結びつきについては、それらは歴史的なものだという注記は必要にはなるだろうが、よく論じられるトピックであり、本書の記述は良いものだと思う。このトピックについての手にとりやすい解説が得られるのは良いことだ。統計学存在論として整理されている事柄については、自然種・帰納推論・因果などの哲学的トピックについて私はあまり詳しくないため、判断を差し控えたい。他方で、本書でいう統計学の認識論、すなわち統計学と現代の分析的認識論とを本書のようなかたちで結びつけることに、単なるアナロジーを超えた意義があるのかといえば、私は否定的な考えだ。

 

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 私は統計学と認識論という組み合わせについて否定的なわけではない。本記事でも言及しているベイズ認識論あるいは(確率を用いた)形式認識論は、哲学的認識論の中でも近年特に発展している分野である。本書で「統計学の意味論」として整理されている、確率解釈と古典的な統計手法との歴史的結びつきも興味深い分野だ。また、意思決定理論の哲学的側面、あるいは哲学的意思決定理論という研究分野もあるはずだ。手前味噌および繰り返しになるが、私が数年前に書いたこのブログ記事でもこの辺りの文献を紹介している。どなたかに研究してほしい。

*1:1点目はベイズ認識論についてである。著者は、ベイズ更新を信念間の関係とすることで、ベイズ統計が内在主義的認識論と親和的であるとする。しかし、ベイズ認識論[bayesian epistemology]の論者たちは、このような整理には首をかしげるのではないだろうか。ベイズ認識論者は、合理的な信念の度合いは確率の公理に従うと論じ、また新たな証拠を得たときの信念の更新は、ベイズ更新(のような考え方)に従って更新されるべきだということを論じる。しかし、信念の更新は「新たな証拠を得たとき」に行われるのであって、この証拠は必ずしも信念である必要はない。ベイズ認識論者たちは、上記のようなベイズ認識論にとって基礎的な考え方においては、証拠は内在主義的にも外在主義的にも理解することができるため、認識論的内在主義と外在主義の対立には特に何も関係しないと論じるのではないだろうか。(もちろん、ベイズ認識論、あるいは形式認識論という言葉でどのような論者のどのような議論が指されるのかはそれほど明確なものではないし、また私の理解はあまり正しくないかもしれない。)
 上の記述は著者からみると的外れにみえるかもしれない。本書はベイズ統計について論じているのであって、ベイズ認識論について論じているわけではない。ベイズ認識論の論者がどう考えているかではなくて、ベイズ統計の古典的あるいは伝統的な考え方が、認識論的内在主義と親和的なのかどうかが問題なのだと。このような反応は正しいかもしれない。とはいえ、前段落で述べたことは、広く「ベイズ流」とよびうる考え方がいかに多様に発展させられうるかということの証左にははなるだろう。
 2点目は2章の後半で展開されるベイズ統計の全体論的解釈である。著者は、Gelmanなどの記述を参照し、ベイズ統計の内在主義的な特徴づけを退けて、ベイズ統計の全体論的解釈を提示しているように思われる。著者によれば、そのような「全体論的な評価は、内在的な信念の枠外に及ぶ」(p. 87)という。確かに、このような評価において用いられる様々な要素は、伝統的なベイズ統計が信念の対象とするものではないだろう。しかし、認識論的な内在主義者にとっては、これらの要素は特に何も問題なく信念の対象になる。ベイズ認識論者であれば特に何の問題もなく信念の度合いの対象になるというだろう。Gelmanが描くようなベイズ統計の現実的実践は、確かに伝統的なベイズ統計学の思想からははみ出しているように思われるが、上述のような意味で、認識論的内在主義からはみ出すのかどうかとは特に関係がないように思われる。

*2:とはいえこれは本当だろうか。たとえば、p値問題と認識論的外在主義の課題は十分に類似しているだろうか。あるいは、p値問題を理解するのに、認識論的外在主義への言及が役に立っているのだろうか。何をもって「十分に類似する」「役に立つ」が満たされているといえるかは不明確であり、はっきりとした判断は難しい。ただ、明確な議論はたてられていないが、否定的に答えたい気持ちも強い。

*3:本書で述べられているように、統計推論が扱っている問題が極めて認識論的な問題であることは間違いはない。ただし、この認識論的な問題を扱うのにあたって、20世紀後半に発展してきた分析哲学における認識論の枠組みを用いるのが適切であるかどうかは、そう明らかなものでもないだろう、というのが私の所感である。
 たとえば、Efron&Hastieの『大規模計算時代の統計推論』(邦訳は2020年、共立出版)は、アルゴリズムと推論という2つの側面を意識しつつ、20世紀初頭から現在までの統計学機械学習の発展の歴史を概説した本である。ここで、「推論」ということでは、どうしてその統計学的手法が我々が採用するべき良い手法なのかということ、すなわち正当化のことが指されている。この本は統計推論における正当化の変遷や概説を、最前線で見続けてきた統計学者の視点から描いている。その意味で、この本の少なくない紙幅は、統計学の認識論について論じることに割かれているといえる。しかしこの本は、当然のことながら、20世紀後半に発展してきた分析哲学の認識論についてほぼ言及していない。