宝くじの問題?

 前回に引き続いてまた宝くじに関して。

 

(頁数は特別の文脈を除いてHawthorne (2004)の頁数を指示している。) 

 今回は、John Hawthorne (2004), Knowledge and Lotteriesなどで論じられている宝くじが関連する問題(「宝くじの問題」とよぼう)に着目してみたい。問題は以下のようなものである(pp. 1-7)。

 「私は今年アフリカのサファリに行くだけのお金を手にしないと私は知っている」とある人が発言したとする。この人物はあまり裕福ではないとしよう。私たちはふつうこの人物の発言を正しいものとして扱う。つまり、私たちは、この人物はアフリカのサファリに行くだけのお金を手にしないとこの人物は知っていると考える。

 一方で、この人物はときどき宝くじを買う。ここで、この人物が「私は今年宝くじで大金を手にしないということを私は知っている」と発言したとしよう。私たちは、この発言が正しいものだとはふつう考えない。くじが当たるか外れるかを、宝くじを引くよりも前もって知ることができるというのはおかしい。

 しかしながら、知識にまつわるこのふたつの判断の間には緊張がある。なぜならば、「この人物は今年アフリカのサファリに行くだけのお金を手にしない」ということは、「この人物は今年宝くじで大金を手にしない」ということを帰結するからだ。そのため、「私は今年アフリカのサファリに行くだけのお金を手にしない」ということを知っている人物は、この帰結関係を推論によってたどることで、「私は今年宝くじで大金を手にしない」ということを知ることができる立場にいるはずだ。

 つまり、ある主体をSとして、ここでは以下の3つの命題が不整合に陥っている。

  • (a)Sは今年アフリカのサファリに行くだけのお金を手にしないだろうとSは知っている。
  • (b)Sは今年宝くじで大金を手にしないということをSは知らない。
  • (c)Sは今年アフリカのサファリに行くだけのお金を手にしないとSが知っているならば、Sは今年宝くじで大金を手にしないということをSは知ることができる。

 この問題は一般化できる。*1つまり、宝くじに限らずとも、未来の命題に限らずとも、私たちがふだんから知っているとみなす命題(日常的命題)が、真である確率がきわめて高いが私たちが知っているとは認めがたいような命題(宝くじ命題)を含意するということを指摘することができ、私たちの知識帰属の判断の不整合性を指摘することができる。これが宝くじの問題である。

 Hawthorneのこの著書は、宝くじの問題に対する解決策を検討するものになっている。とりわけ"know"について、帰属者文脈主義と、通常の不変主義、それからsensitive moderate invariantismとよばれる立場(この立場は現在ではsubject-sensitive invariantismとよぶのが標準的だと思われる)が比較検討され、最後のものに一応の軍配が上げられる。

  この宝くじの問題は、前回のブログ記事で紹介したKyburgに由来する宝くじのパラドクスと異なる仕方で表現されてはいるが、問題の出所は宝くじのパラドクスとほとんど同じであるように思われる。

 

 以下では、この問題に関するある論点についての議論を紹介して、それにまつわる漠然とした私の所感を述べることとしたい。

 (b)を否定する道を考えてみよう。つまり、当たる確率が非常に低い宝くじについては、私たちはくじの結果を確認する前からくじが外れるということを知ることができる。私が当たる確率の非常に低い宝くじを一枚持っているならば、当選番号が決まる前から、この宝くじについて「このくじは外れる」と私は知ることができる。宝くじの問題を解決するためのこの立場に対しては、次のような反論がなされることがある(pp. 29-31)。

 知識は実践的推論と結びついている。つまり、私たちは自分が知っていることを、どのように行動するかの検討における前提として用いることができる。ここで、ある人が宝くじ1枚を1円で買うという提案をしてきたとしよう。もし、私たちが宝くじを引く前から、「この宝くじは外れる」と知ることができるならば、私たちは次のような推論を行うことが認められるはずである。

  1.  この宝くじは外れる。
  2.  私がこの宝くじを持っていても私は何も得ない。
  3.  しかしこの宝くじを売れば1円を得ることができる。
  4.  よってこの宝くじを売った方が良い。

このような推論は受け入れがたい。Hawthorneは次のように論じる。「第一に、このような推論が受け入れがたいことは充分に明らかであるように思われる。第二に、次のことが明らかだ。すなわち、通常の人々にこのような推論がどうして受け入れがたいのかを尋ねるとするならば、第一の前提が真であることが知られていないと人々は答えるだろう。[...]pかどうかという問いが実践的に関連するものであるならば、pを知っているときには検討においてpを前提として用いることは認められ、pを知らないときには実践的推論においてpを前提として用いることは(少なくとも多くの場合において)認められない。このことは、一見したところでは私たちが受け入れている検討[deliberation]についての概念枠組み[conception]である。」(pp. 29-30) *2

 私はあまりこのような考え方に共感できない。たしかに上記の推論は受け入れられない。だが、そもそもほんとうに、知識と実践的推論が上記のような仕方で結びついているのだろうか。私には、知識と実践的推論がこのような事例でそのような仕方で結びついているとは到底思えない。結果のわからない宝くじを売るかどうかを検討することにおいては、たとえば、得られる金額の期待値を検討するべきだと考えられる。*3この宝くじが、0.0000001の確率で1億円が当たり、0.9999999の確率で1円ももらえないような宝くじならば、期待値は10円であるから、この宝くじを1円で売るべきではない。それだけの問題ではないだろうか。

 Hawthorneのこの著書にはこのような考え方に対して応答を行っている箇所がある。そのまま引用しよう。

 知識と実践的推論の結びつきについてはどうか?ここで問題はまた少し錯綜する。前提がアプリオリに確実である場合を除いて、実践的推論においては確率的な前提のみを用いるに留めることが規範的に望ましいと考えるベイジアンたちがいる*。私たちはできる限り努力して理想的ベイジアンの推論者に近似しようとしているのであって、近似できていない分だけ、私たちは規範的批判に甘んじる。このような観点からは、私たちが確率的でもないしアプリオリに知りえるものでもないような前提を用いて実践的三段論法をしばしば用いていることは、規範的に非難されるべきことである(とはいっても、私たちが実行する行動が、私たちと同じ状況におかれている理想的ベイジアンによって遂行された、期待効用の計算に従って実行される行動と異ならないならば、重要でない非難ではあるだろう)。[...]

 人間を規範的に評価することにおいて上述のような理想的ベイジアンの推論者がどのような役割を果たすのかということは深い問いであり、私はこの問いにここで十分に取り組むことはできない。しかし、人間の推論者に(つまり、理想的ベイジアンの推論者にではなく、人間の認識的状況に)より直接に結びついた規範的枠組みの余地があるということを、私は強く推測する。この枠組みは、任意の与えられた実践的環境において、多くの経験的命題が適切に受け入れられ、ある人の認識的状態空間が、その命題の否定が成り立っていないような世界へと狭められる(それゆえにこれらの偶然的命題の認識的確率がゼロである)というような枠組みである。そして、ある実践的環境において適切に受け入れられた命題が、他の異なる実践的環境ではそのように扱われていない(それゆえに、私たちの認識的生活は、ベイズ的条件づけに近似されるようなかたちで展開されていないし、また展開されるべきではない)というような枠組みである(pp. 136-7)。

 

*注:私はここでジェフリー条件づけに従ったアップデートを考えるようなベイジアンのことを念頭においている。

ここで言われているのは、ある命題を知っているか知らないかというバイナリーな考え方を用いる、整合的で有意義な枠組みが存在するというようなことだと思われる。そのような枠組みがあるのかどうかは、哲学(特に認識論)全体の趨勢を踏まえてみないとよくわからない。しかしながら、宝くじの問題についての議論、特に実践的推論との結びつきに関する議論を見ていると、ほんとうにそのような枠組みで考える意義があるのだろうかという問いに対して、私は否定的に答えたいような印象を抱く。

 信念には2通りの着想があるということがよく言われる。ひとつは、ある命題に対してとれる態度として信じるか信じないかの2通りを考える着想である。もうひとつは、よりきめを細かくし、ある命題に対して人が持つ信念を0から1までの実数で表現する着想である。0ならばその命題をまったく信じておらず、1ならばその命題を確信をもって信じているということになる。前者の着想の信念はoutright beliefあるいはfull beliefとよばれ、後者の着想の信念はdegree of beliefあるいはpartial beliefとよばれる。

  伝統的な認識論は前者のような信念を重視する。確率を取り入れた形式的取扱いを好む論者のなかには後者のような信念を重視し、前者のような信念には限定的な重要性しか認めない者もいる*4。認識論の問題全体はともかくとして、宝くじの問題についての議論を眺めていると、少なくとも実践的推論と信念/知識の結びつきということにおいては、後者のような信念の着想を用いなければ有意義な成果は得られないのではないかという気持ちがある。*5

 

*1:この問題自体はもっと前から議論されてきたものだが、この一般化を鮮やかに指摘した最初の議論として、HawthorneはJonathan Vogel (1990), "Are there Counterexamples to the Closure Principle?"を挙げている。

*2:Hawthorneは、sensitive moderate invariantismの枠内で、「ある機会にpという信念を実践的推論における前提として用いることが受け入れられないならば、その信念はその時点において知識ではない」というテーゼを提案している(p. 176)。Hawthorneはここで、そのときそのときの実践的な利害関心が知識文の真偽に影響を与えると考えている。このような考え方はpragmatic encroachmentとよばれるが、いずれにせよHawthorneは知識と実践的推論を強く結びつけている。

*3:獲得できる金銭の値をそのまま用いずに、限界効用逓減などを考慮に入れてもっと洗練された枠組みを用いるべきだろうが、ここでは本文中のかたちに留めておく。

*4:たとえば、Darren Bradley (2015), A Critical Introduction to Formal Epistemologyでは、full beliefは「人間がどのように行動するかをモデリングする」のに役立ち、partial beliefは「理想的に合理的な人間がどのように行動するかをモデリングする」のに役立つと論じ、後者が哲学の問いであるから、full beliefは哲学的な重要性においてpartial beliefに劣り、哲学的問いに対して限定駅な重要性しか持たないと論じている(Bradley 2015: 24-5)。(ところで、Bradleyは前者の問いは科学が扱うとしており、科学として具体的に心理学・社会学・経済学・人類学の名前を挙げているが、これらの学問も規範的な議論をたくさん行うはずなので、このような学問の分類は極めて不適切ではあると思う。)

*5:たとえば、David Christensen (2004), Putting Logic in its Placeでは、信念を制約する第一の規範はdegree of beliefに課せられるprobability constraintであって、実践的推論と信念とのかかわりもこの制約によって説明されると論じられている。Christensenは、宝くじの問題については態度を保留しているが、それと類似の「序文のパラドクス」とよばれる問題の検討を通して、「私たちが持つoutright beliefの集合はconsistentでなければならない」という制約を批判している。