宝くじのパラドクス

(注:2016/06/03ごろに多少手を加えました。)

 twitterで以下のようなアンケートをやってみたこともあって、これが引き起こすいわゆる「宝くじのパラドクス[lottery paradox]」という問題について簡単に解説しようと思います。急いで書いたので間違っている箇所があるかもしれません。そのような場合は指摘してくださるとうれしいです。

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 宝くじのパラドクス[lottery paradox]は、命題の合理的受け入れ[rational acceptance]や知識(あるいは正当化)概念が、確率と複雑な関係を持っていることを浮き彫りにするパラドクスである。この問題がはじめて提起されたのはKyburg (1961) Probability and the Logic of Rational Beliefにおいてであるとされている。分析哲学の一分野である認識論において現在まで盛んに議論されている問題であるが、いまではKyburgとは少し異なる問題意識のもとに同一の事例が取り上げられることも多い。この記事ではそれらの問題を含めて宝くじのパラドクスについて簡単に説明する。

 

 問題となる事例は以下のようなものだ。

1枚のあたりくじと999枚の外れくじが含まれた1000枚のくじがあり、あなたはこのくじを1枚だけ持っている。このくじが当たる確率は1000分の1だとあなたはわかっており、またあなたはくじが不正に操作されているなどといった特殊な情報を一切持っていないとしよう。このとき、あなたは「自分のくじは外れる」と知っているだろうか。

 Kyburg当人が宝くじのパラドクスと呼んだのは、「自分のくじが外れる」と知っていると考えた場合に起こるパラドクスである。*1このパラドクスを簡単に紹介しよう。問題となるのは、「自分のくじが外れる」という知識と以下のような正しそうな原則を組み合わせたときである。(P, Qを任意の命題とする)

原則(A):Pを知っていてかつQを知っているならば、PかつQを知っている。

パラドクスは以下のように導かれる。問題の事例において「自分のくじが外れる」と知ることができるならば、あなたは1000枚のくじのそれぞれを前にしたときに「このくじが外れる」と知ることができるはずだ。つまり、あなたは任意のくじについて「このくじは外れる」と知ることができる。ここで、原則(A)を繰り返すことから、あなたはこの1000個の命題の連言(「かつ」でつなげたもの)を知ることができる。つまり、あなたは「1000枚のくじはすべて外れる」という意味を持つ命題(pとなづける)を知ることができる。しかし一方であなたは、1000枚のくじには1枚のあたりくじが含まれていることを当然知っているはずである。つまり、「1000枚のくじのうち1枚は当たる」という命題(qとなづける)を知っているはずである。pとqは矛盾するので、状況のおかしさは既に明らかであるようにも思われるが、状況はもっと悪い。pとqについて原則(A)を適用することで、あなたは「1000枚のくじは全て外れ、かつ1000枚のくじのうち1枚は当たる」という矛盾した内容を持つ命題を知ることができる。これはとても受け入れがたい。これがパラドクスである。

 パラドクスを回避する方法として、Kyburg本人は、「入手している証拠と照らし合わせたとき、ある命題が間違っている可能性がeよりも大きいならば、その命題を知ることはできない」というような原則を考えた。つまり、Kyburgによれば、確率が1-eよりも大きいときのみ命題を知ることができる。このような着想によると、依然としてあなたは「自分のくじが外れる」ということを知ることができるが、原則(A)は成り立たない。PとQの誤りの可能性がそれぞれeより小さいとしても、PかつQの誤りの可能性はeより大きくなることがあるからである。つまりKyburgは、確率と知識についての上のような原則を採用することで、原則(A)を否定してパラドクスを回避したのである。*2 *3


 ところが、現代認識論において宝くじが取り上げられるときは、むしろKyburgが扱ったのとは異なる問題が念頭に置かれていることが多い。まず、現代の哲学者(認識論者)の大多数は、宝くじの事例については、私たちは「くじが外れる」とは知らないと考えたくなる直観を(事実として)持っていると論じる(アンケートの結果もそのことを支持するものだった)。さらに、多数派の哲学者は、この直観が示唆するように(Kyburgに反して)「くじが外れる」とは知らないと考えるのが正しいと考えている。

 どうして「知らない」と考えるべきなのか?ひとつにはKyburgがこの問題を扱うなかで否定した原則(A)をやはり否定したくない考える人々が多いからである。「A、B」から「AかつB」は論理的に帰結する。自明な論理的帰結関係が成り立っているときに、前提を知っているとしても結論を知ることができないということはとても奇妙だろう。他の理由としては以下のようなものが考えられる。結果を見る前から「くじが外れる」と既に知っているとするならば、結果を確認する前にそのくじを既に破り捨ててしまっても非合理的だとは非難されないように思われる。しかしこれはおかしい。

 しかしながら、「くじが外れる」とは知らないと考えることにもやはり多くの問題がある。ここでは2点挙げよう。

 (i)私たちが「知っている」とみなしている事柄のなかには確率が0.999よりも低そうなものがたくさんあるように思われる。たとえば、ある夏の日の朝、あなたはスポーツ新聞を読んで「山田哲人が昨夜の試合でホームランを打った」という情報を得たとしよう。ふつう、このような状況ではあなたはこの情報を「知っている」といえそうである。しかし、「実は新聞は何らかのミスをしていて、山田哲人は昨夜ホームランを打っていなかった」という確率は0.001よりも大きいかもしれない(大きいとしよう)。そうであるならば、この命題が真である確率は0.999よりも低いにもかかわらず、あなたは「山田哲人が昨夜の試合でホームランを打った」という命題を知ることができることになる。つまり、知識とは認められない「自分のくじは外れる」よりも、真である確率が低いとわかっているにもかかわらず知識であると認められる事柄がたくさんあるように思われる。これは少し居心地の悪い帰結だろう。もしあなたが「「自分のくじが外れる」と知ることができないのは確率が1ではないからだ」と論じるとするならば、あなたはくじについての知識だけではなくてほとんどの日常的知識を失ってしまうように思われる。

 (ii)実質的には(i)とそこまで変わらないのだが、少しトリッキーな問題として以下のようなものがある。宝くじの事例において、あたりくじの当選金額は2兆円であるとしよう。山田哲人がくじを1枚持っているとする。山田哲人は、2兆円が手に入ったらプロ野球選手をやめるという確固とした意志を持っているということにしよう(すみません)。ここで、山田哲人は「宝くじが外れる」と知ることができないのであった。では、山田哲人は「自分は来シーズンもプロ野球選手である」と知っているのだろうか。山田哲人は宝くじに当たったならば、プロ野球選手をやめてしまう。しかし山田哲人は自分の手元にあるくじが外れるということを知らないのであった。そのため、山田哲人は「自分が来シーズンもプロ野球選手である」ということを知らないということが帰結してしまうように思われる。しかしながら、この帰結は直観に反するのではないか?「自分は来シーズンもプロ野球選手である」ということは山田哲人にとってある意味当たり前のことであり、ふつう知っているといってよい事柄であるように思われる。しかしながら、現在の設定では、1000分の1の確率で2兆円があたる宝くじが手元に1枚あるだけで、山田哲人は「自分が来シーズンもプロ野球選手である」という知識を失ってしまうように思われる。これも受け入れがたい。*4


 まとめると、前半で説明した、Kyburgが論じた問題がもともとの「宝くじのパラドクス」である。しかし、Kyburgの取り上げた事例は、Kyburgのはじめの問題意識よりも大きな話題へと発展してしまった。いずれにせよ、宝くじの事例において、「自分のくじが外れる」という命題については、知ることができると考えた場合でも、知ることはできないと考えた場合でも、哲学者が無視できないような問題群が生起することになる。

*1:Kyburgは、「自分のくじは外れる」という命題を受け入れることが合理的なのだろうか、というような形で問いを提起しており、「知識/知っている」という言葉は異なった意味で用いている。しかしながら、簡単のため、本記事ではKyburgとは異なる形で問いを立てた。

*2:Kyburgの立場では、矛盾した命題を受け入れることは回避できる。しかし依然として、それぞれのくじについての「このくじは外れる」という1000個の命題を受け入れることと、「1000枚のくじのうち1枚はあたる」という命題についての知識を受け入れることを許容している。つまり、Kyburgの立場はinconsistentな命題の集合を受け入れることは許容している。これはまだ少し奇異に感じられるかもしれない。

*3:Wheeler 2007 "A Review of the Lottery Paradox"では、パラドクスへの応答も含めたこのような宝くじのパラドクスが簡潔にまとめられている。http://gregorywheeler.org/papers/LotteryReview.pdf しかし形式的な取扱いも多く、読みやすい論文ではない。

*4:この問題はさまざまなかたちへと一般化できるとされている。Hawthorne 2004 Knowledge and Lotteriesで論じられているのは主にこの問題であり、認識論においては、宝くじ関連の問題としてはこの問題がいちばん注目を集めているように思う